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「銀座15番街」200号を迎える


 昭和41年(1966)、銀座7・8丁目の専門店が「銀座15番街」を結成し、翌42年、自らの言葉で自店の主張をと、雑誌『銀座15番街』を創刊しました。今号で200号を迎えますが、この会を牽引してきた方々の銀座15番街への思いを伺います。


【座談会出席者】

伊勢由 ●創業・明治11年 千谷俊夫さん
*銀座15番街創立メンバー


7.田屋 ●創業・明治3年 辻田智紀さん
*先先代の辻田四郎氏は、銀座15番街第二代会長


東哉 ●創業・大正8年 松村晴代さん
*創業者・山田東哉氏は、銀座15番街第三代会長


たくみ ●創業・昭和8年 志賀直邦さん
*銀座15番街第四代会長


維新號本店 ●創業・明治32年 鄭 東耀さん
*銀座15番街第五代会長


銀座国際ホテル(全線座) ●創業・昭和8年
樋口淳一さん
*銀座15番街第六代会長


聞き手●江波戸千枝子





創刊から200号までの歩み


  昭和42年、専門店として時代の流れに媚びることなく、明確な主張を持ちながら創造している生き方を伝えたいと『銀座15番街』は創刊されます。
 横長の創刊号の表紙は創立メンバーのひとり、「東哉」の山田東哉氏によるもので、7本の銀のラインと8本の金のラインが鋭く放射線状に広がっているものです。交差する箇所が「銀座15番街」を示し、あるいは、そこを起点として末広がりのように拡大するかのようにも見えるデザインには創立者達の心意気が見て取れます。以来、山田氏は自らが表紙絵を描いたりするなど138号まで表紙監修に携わりました。さらに、会の運営方法にも謝恩券の発行など具体的なアドバイスをするなど「銀座15番街」を牽引します。
 歴代の会長はもちろんの事、集まった商店や飲食店の主人達は、自らの言葉で主張をとペンを執り、絵筆に色を含ませ、原稿を依頼し広告主を探しました。自分達が創り出している商品や扱っている作品、造りだしている料理には魂が込められていることを知って欲しかったのです。
 また、創立後ほどなくして開催され現在も続いている会員の飲食店を周る「食味会」では、物販の会員が一般のお客様に自店の商品をお披露目し、店とお客様の垣根を取り外す努力を重ねました。第二代会長の辻田四郎氏は、会長在任中毎回夫人同伴で接待役として参加したと伝わっています。お客様を尊びながらも、自らの主張を伝えたいという強い思いが二百号につながっているのです。





─千谷俊夫さんは昭和元年生まれですから「銀座15番街」(以下、【会】と表記)の創立メンバーの中でも、お若かったですね。どんなきっかけでこういう集まりができたのですか?

〔伊勢由・千谷俊夫〕店の並びの呉服店の番頭さんが「ご近所の方々、どこのお店のどなたか判らないんですよね?」と話していたことがありました。僕の隣は東哉さんですからそんな話もしました。そしたら、程なくして東哉さんから「みんなで集まれる会を創ろうじゃないか!」と話が出たんです。そこが始まりでしたね。
 今では店舗も随分と変わりましたが、ここ金春通りは僕のような和装関係の店や洋装店、料亭やレストランなどいろいろな店がありました。どちらも独自の持ち味を出す趣き深い良いお店ばかりでした。金春湯は当時のまま営業していますね。
 東哉さんの呼びかけに皆さん応えたのでしょう。【会】に参加して下さる店もこの通りのお店が一番多かったのではないでしょうか。





─「東哉」さんの創業者、山田東哉さんは【会】の創立メンバーであり、第三代会長を歴代の会長の中では一番長く十四年に渡って務められました。娘さんとして、そばに居て活動の様子をみていたわけですね。

〔東哉・松村晴代〕父は、銀座全体の風潮が販売目的になっていく中で、自分の店で扱うものは自ら手をかけた物を販売するを主張していました。その精神を『職商人』と呼び、徹するべきだと晩年まで言っておりました。
 【会】の創立の精神は『職商人』であり、そういう方々の集まりであったと思います。
 私が店に出るようになったのは1983年ですから、ちょうど父が会長になった年ですね。予算の問題もあったのかも知れませんが、とにかく自分達の手で作っていこうという気概でした。
 表紙に関しては創刊号もそうですが、写真のように季節に合わせて、一生懸命デザインを考え色を塗っていたのを覚えています。出来上がると編集者を呼び印刷に渡していました。また、編集内容についても目を通していましたね。後年、自分で書くことは無くなりましたが、表紙の監修は続けていました。相当、気合が入っていましたね。
 それと、お客様へのサービスのひとつとして謝恩券(加盟している店舗で使える金券)を発行するなどして【会】の運営に尽力していました。





─「7.田屋」さんの三代前の社長、辻田四郎氏は【会】の第二代会長を八年間務められました。会独自の集まり《食味会》には、夫人同伴で必ずご参加なさっていたと聞いていますし、写真も残っています。

〔7.田屋・辻田智紀〕祖父になります辻田四郎は、私が十一歳の時鬼籍に入りました。晩年は病気の為に意思疎通も上手くとれない状態でしたので、思い出はさほど多くはありません。父の辻田昌之利からは、祖父の厳しさを事有るごとに聞かされていました。
 銀座15番街の会長として食味会に参加している写真はいかにも楽しんでいるのが伝わり、自分の記憶にはない新たな〝おじいちゃん像〟を垣間見た気がしました。





─昌之利氏から、四郎氏が会員の手元にある過去の銀座の写真を集めて雑誌に掲載する《写真資料で綴る銀座八丁》という企画でタイトルを直筆でと頼まれ、夜中まで机に向かって何枚も書いていた、と伺ったことが有ります。

そうですね。筆は達筆だったと思います。今でも、店で使っております懸け紙の文字は祖父の書いたものです。
私自身は父が亡くなってから銀座の店舗に出るようになりましたので【会】の事も詳しくは知りませんでしたが、祖父が創立に携わったと聞き親しみが増しました。


─「たくみ」の志賀さんは、第四代会長として十年間会長を務めて下さいました。それまで【会】では編集会議を主だって行っていませんでしたが、志賀さんの代から会員が参加して意見を交わすようになり、ますます手作り感のある本誌になったと言えます。

〔たくみ・志賀直邦〕私どもの【会】を〝職商人〟の集まりと東哉会長は称していましたが、その通りで扱うものは、代々継承した良いものを商う、あるいは作っているものです。本当のものを見る目で扱っているのですね。
士農工商の制度の中、転封などにより支配階級が移動していく中で、農民はその地に残りますが、中間層である商人・職人は士に付いて動いて行くので、どんな身分の人にも必要な生活文化は多方面に広がって行きました。そのもの作りは商人が支えていたのです。たぶん、伊勢由さんも伊勢(三河地方)から、徳川家康に付いて来て江戸で家業を続けられたのではないでしょうか。このように地方からたくさんの士が交流した江戸には、文化の混在した面白い独特のものが生まれました。そうした地域的な個性が徐々に銀座の個性を創り上げてきたのです。
 この街の成り立ちからも、銀座は職商人の街です。【会】の出自は地方がほとんどです。一般の人々が銀座ブランドと思っているものは、実はそのお店の出自を個性として活かしているものなのです。外の手法も取り入れながら、質が良い独自のものを創り上げています。【会】の人達は、常にこのことを考えていると思います。





─維新號本店の鄭さんは、第五代会長として六年間勤めて下さいました。

〔維新號本店・鄭東耀〕【会】の草創期の会員は銀座七・八丁目が主で、この地域の特徴は物販の店、料理屋・バーなど飲食の店、お風呂屋さんに今は来なくなりましたが軽トラックで来る魚屋さんや八百屋さんなど、街を作り上げている組織体が、銀座の中でも庶民的下町風という事でした。現在は多少変わりましたが、それでもとても親しみを感じられる地域ですね。
 そこに生まれた【会】もどちらかというと庶民的です。雑誌作りも編集者に任せるのでは無く、会員と編集者が集まり内容を話し合って作っています。会長だからとかに関わらず、皆さん言いたいことを言い、創り上げていく。また、十年に渡って書いてくださった映画研究者の本地陽彦さんのように、銀座が好きでコツコツと地道な研究を重ねていらっしゃる方が執筆して下さっている。そういう姿勢が親しみのある雑誌が続いている要因ではないでしょうか!
 お金をかければきらびやかな雑誌はいくらでも作れるのでしょうが、僕は、今でもうち【会】の雑誌を見るとホッとします。お客様もローカルな親しみを感じていらっしゃるのではないでしょうか!お客様あっての【会】ですから、銀座に行って良かったなあと喜んで頂ける雑誌でなくてはなりません。


─鄭さんが会長の時、泰明小学校創立百三十周年記念の俳句大会を小学校と【会】の共催で行いました。

あの企画は良かったですね。泰明小学校は銀座の学校ですし、地元の商店のお子さんもたくさん通っていらっしゃる。【会】の中にはPTA会長を務めた方もいます。人と人の触れ合いが感じられました。





─樋口さんは、2014年から第六代会長を務められています。サービス業という事もあり、物販とは異なる視点で【会】を捉えられるのではありませんか?

〔銀座国際ホテル・樋口淳一〕私どもの銀座での歴史は、1938年に開業した映画館、全線座に始まり今年で八十年になりました。当ホテルは1979年に営業を始めています。時代と共に事業は多角化しましたが、初代の『全線座』にかけた思いは守って来ました。
 冊子のバックナンバーを読み返しますと、会員の銀座に対する高い意識を感じます。自らが商品やサービス、信念信条といったものを書いていますので、熱意と努力が伝わり諸先輩に頭が下がります。自らが携わる事で、地味ではありますが地に足の着いた手作り感満載の雑誌になっています。
 この五十年で二百冊の雑誌を発行していますが、銀座の足跡・変遷を綴る貴重な資料、財産であり【会】でなければ出来ない事だったと思います。
 銀座が大好きだった父から私は、いろいろな話を聞かされていました。当時は聞き流していたこともありますが、今は父の収集した多くの銀座の書物を読んでいます。世代を越えて『伝え続ける事の大切さ』を強く実感します。
 また、私ども【会】は、銀座の歴史や文化はもちろん、今の銀座の臨場感、楽しさや躍動感もお伝えしています。その積み重ねが地元の貢献につながっていくと思うのです。





これからの【会】が銀座で果たす役割とは



〔7.田屋・辻田智紀〕銀座というエリアは祖父の時代に比べ、大層グローバル化したと思います。【会】のような小さな集まりが依然として存在するのは、やはり銀座の素晴らしき一面と思います。これからも商いだけでなくこのエリアの文化的情報の発信を続けられることを願っています。

〔東哉・松村晴代〕きちんとした仕事で自店でしか出来ない良い物を出していくのが大切な事と考えております。それは、自店のファンが増える事につながっていきます。これからの銀座は、今以上に海外からのお客様も増える事でしょう。『職商人の初心の精神』を基に、時代に合わせた誌面にも変えていく必要が有るのではと思っております。

〔たくみ・志賀直邦〕職商人の【会】はもの作りの現場を熟知しています。生活文化がいろいろな角度から見直されている今、【会】には懐古趣味ではない銀座の個性をアピールして欲しい。そのためにもさらに【会】の持ち味を創り上げることが必要ではないかと思っています。

〔維新號本店・鄭東耀〕【会】は人と人の触れ合いを大事にしてきました。世の中がIT化してきても、それは忘れないで欲しい。問題もありますが、今、銀座には中国や東南アジアからのお客様が増えています。でも、距離的な面から見ると英米方面からはそうは増えないでしょう。お客様あっての銀座です。問題も良い方向に向かっていきます。

〔銀座国際ホテル・樋口淳一〕銀座は多面的で文化の交差点です。懐が広いとも言えます。これ程、皆が好きな街も無いのではと思います。皆が街に情熱とプライドを持っています。【会】では、次世代を見据えていろいろな通信手段も取り入れ、「銀座」をお伝えしなければならないと思います。

〔伊勢由・千谷俊夫〕【会】の性質から難しいですが会員の宣伝や広告ばかりになると、雑誌に深みが無くなり面白く無い。会員以外の方の対談とか、次号は誰かなとお客様を楽しみにさせるものが必要。少しずつで良いので進歩して欲しいです。


『銀座15番街』に感謝



昭和63年、銀座7丁目の螺旋階段がある洋菓子店でもらった『銀座15番街』に「仕事はあまり忙しくありません」と求人広告が載っていた。電波の仕事を辞めて程ない私はどれほどこの一行に惹きつけられた事か!そして誰一人知る人のいない【会】の記者になった。コロンバンがフランス菓子のパイオニアとか路地には通り抜けOKの店があるとか、何と興味の尽きない人達と街なのだろう、銀座は。
(第三代編集長 江波戸千枝子)



200号 冊子の入手方法