会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.20   料理は一代、史実一路!  


浅見 健二氏  
Asami Kenji
銀 座 あさみ 店主

銀座で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」

平成12(2000)年、20年余の修行を経て自身 で創業。近辺に名店と呼ばれる料理店が多い中で、料理の基本を忠実に守り、常に研究を 重ねてひたすら頑張る浅見健二氏。現在では顧客も多く、歌舞伎観劇などのお弁当やテレ ビ局のロケ弁として利用されるなど、人気の日本料理店に成長させた。また、氏は子ども の頃から見続けてきた銀座を、こよなく愛する経営者のお一人でもある。

 

● 平成12年に日本料理店として創業されましたが、なぜ銀座だったのでしょうか。 
 銀座にはもともと土地勘がありました。昔、聖路加病院の隣に築地産院というのがあって、僕はそこで生まれ ました。育ったのは江東区ですが、父が青果業だったので、小さい頃から父について築地の市場に来ていまし た。高校も竹橋駅の方だったので、学校の帰りには銀座に寄って映画を観たりして遊んでいたので、新宿や渋 谷、麻布、六本木方面よりは親近感や愛着がありました。
●家業を継がず、料理人を目指されたのですね。
 青果業は兄が継いでいます。商人の家で育ちましたし、父も、できれば商売をできるような職業を、と言って いたのです。ただ、親がたいへんなのを見ていましたので、八百屋は嫌だなあと思って。それで料理人という か、もともと料理を作るのが好きだったんですね。子ども時代もやはり両親は商売が忙しく、なかなか構っても らえません。たとえば土曜日なんか、学校から帰っても食事の用意がしてないこともあって、自分で店先から チョチョッと何か持ってきて食べたり、卵焼きやラーメンなんかを作って食べていました。そんなことをしてい たもので、それで料理人になりたいなあ、と漠然と思っていて、漠然と自分の店が持てればいいなあ、と思って いて、漠然と銀座でできればいいなあと思っていたのです。
●どのような勉強をなさいましたか。
 高校卒業後、ツテもないので「華学園」という調理師学校へ入り、一年で調理師免許を取りました。その学校 からの紹介で九段にある京料理店に就職しましたが、平成12年に四十歳で独立するまで、あちこちで修行しま した。
 ただ、修行中も、最終目的は、ホテルの料理長になるとかではなく、自分で店をやりたいというのがありまし た。
日本料理 を初めから目指されていたのですか。
 洋食もいいなと思ったのですけれど、調理師学校を卒業するとき、最終的な面接で、理事長先生が、「僕たち いろんなものを食べているけど、最後は日本料理に帰るよ」というひとことで、そうか、僕も日本料理をやって みよう、と決めました。
●なぜこの場所を選ばれたのですか。
 何となくイメージしていたのが固まったというか、初めから他の場所は考えていなかったので、銀座にしまし た。銀座も昭和通りを一本越えると多少条件もよくなるんですね。
 この場所を選んだのは、小寺さん(銀座15番街加盟店・小寺商店)という不動産屋さんの亡くなられた先代 社長さんが、「ここで頑張りなさい。ここで五、六年頑張っていれば今にガラッと変わるよ」と言われたので す。
 当時(平成12年)はまだ汐留ができていなかったし、最初見に来たときは、実際驚きましたね。そこは大通 りでこっちは高速道路、向こうは浜離宮だし、夜に来たときなど誰も歩いていないんですから。近くに竹中工務 店があったけれど、皆さん足早に新橋方面に帰って行かれるんです。
 金融公庫にお金を借りに行った時、先方もここを見に来たらしく、「浅見さん、ここで大丈夫ですかね」って 言われて、申し込んだ金額より低い金額しか借りられませんでした。
 ただ、銀座ナインにある『工芸? むら田』さんご夫妻が応援してくださっていまして、親以外にも第三者の保証人が必要だったのですが、気持ちよく、「保証人になってあげるよ」と言ってくださり、それでやっ と話が前に進んだんです。
●今ではなかなか予約の取れないお店と言われていますが、創業者としての ご苦労はいかがでしたか。
 やはり最初はどこもそうだと思うのですが、始める前のワクワク感と、始めた後の不安というのは全然違って いて、開店してみたらお客様が来なくて困ったぞ、というか、やはりたいへんなことをやってしまったな、この ままいったら潰れちゃうなあ、というのがありました。
 この店の建物は人間国宝・常磐津英寿先生(常磐津節の三味線方の名跡)のご自宅で、上にお住みになってお られるのです。一階は玄関というか自宅の顔でもあることだし、ついては商売をやることはいいけれど、譜面代 に献立など出さず、暖簾だけでやってくれないかと言われたもので、初めは何屋さんかわからないから、誰も来 ないんです(笑)。
 でも、竹中工務店や朝日新聞社の人たちが来られるようになり、口コミでお客様が増えてきましたし、雑誌に 取り上げていただいたお陰で名前が知れ渡って、今ではこういう感じになったのです。当初はやる前の安易な考 えと、やった後のあまりにもお客様が来ないことへの落胆は大きかったですね。
 しかし、創業者として はかえって自由にやれたということはあります。これが二代目で、先代がすごい人だと、先代はああだった、こ うだった、と言われますからね。
●お店を経営する上で困ったことや嬉しかったことなど、エピ ソードがありましたらお聞かせください。
 困ったことはたくさんあります。その一つは従業員のことですね。
 募集しても思い通りの人がすぐ来るわけではないし、なかなか定着もしない。そういうことは勤めていたとき にはなかったので、それもけっこうたいへんだったなあというのはあります。
 よかったのは、「いい店だなあ、美味しかったよ」と言っていただけることですね。やはりお褒めの言葉をい ただくと励みになります。
 もう亡くなられましたが、ここの常磐津のお師匠さんのところにお稽古に来ておられたヤマト運輸の創業者の 小倉様にもよく来ていただき、まだよちよち歩きだった店を応援していただいたことも忘れられません。
●お料理についてどのようなポリシーをお持ちですか。
 料理に関しては、初めはいじくる方に力を入れていましたが、三十歳を過ぎた頃、茶道(表千家)に出合い、 そこで茶懐石を知りました。
 茶懐石というのは無駄なものを省いて、料理だけではなく、器や周りの道具で演出したり、季節感を表したり している。もちろん料理の素材も大切ですが。お茶の本を読むと、そこにあるのは器と食べ物のみで、へんな飾 りやゴチャゴチャしたものがない。もともと器やいろんな勉強もしなければいけないと思っていたときだったの で、そういうものにすごく惹かれて傾倒していきました。お花や書道もやりましたが、今も茶道は続けていま す。
●プライベートで今いちばん楽しみにしていることなど教えてください。ま た、日々の疲れなど、どのようにして癒していらっしゃいますか。
 月に一、二回ですが、休みの日はお茶の稽古に行きます。そこには「非日常」の世界があるし、趣味兼勉強で リフレッシュできるんです。お茶に関係あることばかりやっているわけではないのですが、器を見に行ったり、 美術館に行ったりしています。もちろん、今日それを見に行ったからといって、すぐにどうということはないの ですが、何かの折りや、結果的には仕事に繋がってきますね。
 仕事の疲れというのはあまり感じません。生活の中で、ペースというかパターンができてしまっているので忙 しいのが普通です。暇だといろんなことが思い巡ってしまうので、ある程度回っている方が疲れないんです。
●銀座とはどういうところですか。何を銀座に期待されます か。
 銀座はいいところです。街は碁盤の目でわかりやすく、入り組んでいないですし、4丁目には和光があってそ の前に三越があって、歩くにも安心感があります。それに、銀座へ来るお客様も、みなさん紳士・淑女です。う ちもへんなお客様が来て、酔っ払ってトイレジャックされたとか、ぐでんぐでんに酔っ払ってどうのこうのとか がないんです。
 ただ、今は外国資本の会社やお店が多くなって、それがいけないということではないんですが、ちょっと違う かな、って思います。
 やはり銀座は、生粋の日本の会社やお店がもっともっと頑張っ て多くなってもらいたいですね。

(取材・渡辺 利子)

 

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