●「銀座平野屋」のこれまでの
歴史を教えてください。
平野屋は江戸時代の文化5年(1808)に、日本橋若松町で装剣具を扱う店として創業いたしました。明治
9年(1876)の廃刀令を受け、以後、それまでの技術を生かして、当時必需品ともいえる腰提げ煙草入れ、
和装小物、袋物を扱うようになりました。
昭和9年(1934)に店舗を銀座8丁目に移し、第二次世界大戦の戦火も逃れた古い建物で皆様に親しま
れておりましたが、バブルの影響もあり、建て直しも不可能な状態になって、今は銀座6丁目・外堀通りの土屋
ビル5階で営業いたしております。
時代の移り変わりとともに、扱い商品の内容は少しずつ変わってまいりましたが、二百年の暖簾は守れるだけ
守っていきたいと思っています。
●北海道のご出身とお聞きしていますが、生い立ちなどお聞かせくださ
い。
私は、日高の新冠という競走馬の産地で生まれ育ちました。
父は長野県出身ですが、昭和24年に開拓医「半農半医」として入植しました。私は昭和27年に四人姉妹の
三女として生まれ、七町五反(2万2千5百坪)を駆け回っておりました。搾乳もできますし、馬に乗ることも
できます。
自転車もないところでしたから、父は馬で往診をし、専門は内科でしたが、医者がいないので、外科から小児
科他全ての診療をしなければなりませんでした。今思うと、医療と農業の両立はたいへんだったと思います。
私たち姉妹も、そこには中学校までしかなかったので、進学を考えて中学からは親元を離れて札幌の学校に入
学し、寮に入ったり下宿をしたりして卒業しました。
●
どうして平野屋へお嫁にいらしたのですか。
主人(現・平野屋専務・平岩和好)は本が好きで、東京の知人のところでやっていた「読書会」に参加し、父
の話を聞いて、ひょっこり北海道へやってきたんです。その時は、たくさん来た青年の中の一人でしたが、卒業
後、千葉で働いていた私に、両親から預かった荷物を届けてくれたのがきっかけになりました。
でも、結婚前はそれほど会わず、喫茶店に行ったのも一回、恋愛らしい恋愛ではなくて、結婚してからいろい
ろ考えるって感じでした。
●平野屋の仕事を手伝われるようになって、戸惑ったことやご
苦労はどんなことでしたか。
私の実家は医者でしたので、商売というのは知りませんでしたし、お勤めしたときもボーナスというのも知り
ませんでした。
平野屋を手伝い、一つ一つが目新しく、根付ってなあに? 厄除けってなあに? なぜ看板を残さなければいけ
ないの? 北海道の土地が2万坪で固定資産税は3万円、なのに銀座8丁目で15坪しかないのに、バブル時で
したが450万円もする。こんな店いらない!と思いましたよ。
結婚するとき、主人は「家業は継がない」と言っていましたので、「それなら結婚しようか」という話になっ
てしまいました。
先祖代々とか、老舗、本家、分家といったしきたりのない北海道で育った私が、江戸時代からの老舗、平野屋を
継ぐとは思ってもみませんでした。まして息子ではなく、嫁の私が社長になるなどとは……。
●6代目として経営を引き継がれ、変わったことはあります
か。
先代の時代はよき時代で、「商人は借金も財産のうち!」……よく聞く言葉ですが、仕入れ先には7を払って3を残す。全部返すと縁が切れるが、3を残しておけばそこで繋がっ
ている。今の商法とはぜんぜん合わないのですが、先代は頑固な面もあり、商いについてはほとんど義母が教え
てくれました。
昔のよき時代と違い、老舗の会(大江戸老舗の会)でも今は若い方が店を継いでいますが、「家業を継いだら
借金もついてきた」と笑います。
バブルのときは、銀座の銀行も毎日、借りてください借りてくださいで、「15坪で8億すぐに貸しますから
ビルにしましょう!」と言っていたのに、バブル崩壊後、貸しはがしで、商いを続けるかやめるかという転機が
私たちに乗っかってきました。
しかし、ビルの5階に入ってみると、やはり商いは路面でないと。ウインドーで商品をお見せできないのが残念です。
●今後どんなことをおやりになりたいですか。
先代が残してくれた珍しい資料、材料、道具などの古いものを参考品として皆様に見ていただきたいし、古渡
の更紗も今バッグに仕立てて、皆様に持っていただきたいという気持ちから、日本に一つ、世界に一つの自分だ
けのバッグを、貴重な限られた材料で作りはじめました。
ほんとうに昔のものは素晴らしい技術だと感心します。作ってくださる職人さんは高齢ですがまだいらっしゃ
います。ぜひ復元に協力いただいて、日本の文化を残していけたらいいなあと。特に外国のものばかり目につく
この頃、つくづく思います。
そして、そういったものを銀座で展示するちょっとした美術館のようなものがあってもいいのに……、と思い
ます。
今、老舗の会で年間半年は出張で全国を回っていると、なかなか思うようにはいかず、あれこれ考えて頭の中
がパンクしてしまいそうです(笑)。
●ご家庭ではどんなお母様ですか。
三人の娘がおりまして、一昨年、孫ができました。娘たちが小さい頃、私が出張のときには義母が一週間泊ま
りにきてくれていました。
出張で半年は家を空けていますので、娘たちは保育園に行き、小学校では学童保育で育ちました。
母親として、できるだけ学校の行事には参加するよう調整しながら三人を育てました。途中、娘たちには寂し
い思いも、また相談したいこともあっただろうなあと思いますが、それぞれに成長してくれました。
もちろん、子育てには主人の協力もあり、ずいぶん助かりました。
最近は、義母(90歳)、主人の伯母(94歳)のため、地方から戻ってきたらできるだけ顔を出して、不満
やストレスをためないよう言いたいことを聞いてあげるようにしています。義母は一緒に食事に行くと、楽し
かったわって喜んでくれるので、また頑張ろうと思いますね。
そんなわけで、私自身が趣味を持ったりリラックスしたりする時間はありませんでした(笑)。
●平岩さんからごらんになった銀座とは、また今後の銀座にど
んな期待をお持ちですか。
今、銀座で袋物を扱っ
てきた老舗が廃業に追い込まれています。
白牡丹さん、いづみ屋さん、先日はくのやさんも閉店になり、老舗が銀座から消えてとても寂しいです。
代々続く老舗というのは、看板以外の業種に変えることが難しいです。私が作った店であれば、時代の状況に合
わせていくらでも転換できますが、老舗というのはそこが崩せないんです。でも、褒められたこともあります
よ。昔からの看板商品を扱っているのは平野屋さんだけだねって。
それにしても日本は自国の文化を大切にしない国ですね。一例をあげれば、根付などは日本人よりもアメリ
カ、ヨーロッパの方が収集している人が多く、日本文化を日本人以上に知っています。
せっかく格調ある「大人の街・銀座」は、プライドを持ってお買い物をして、夜は夜で、みなさんが遊びに来
られるところでしたが、近頃は何かブランドや若者集めの銀座になってしまっています。
何でも受け入れるのではなく、これからも老舗がずっと残っていける誇れる銀座にすべきではないかと思いま
す。
(取材・渡辺 利子)
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