●金箔や金粉を扱う専門店
は東京で一軒、日本でも二、三軒ということですが、なぜ銀座にお店を出されたのですか。
昔、「金座」というのは今の日本橋の日本銀行のところにありました。江戸時代は金が統制され、幕府がすべ
てを管轄していましたので、そこで金貨を作っていました。当時はその一帯を箔屋町と呼んでいたそうですが、
当社の前身である「太田屋金箔」も金そこでを買ったり、金箔の切り落としで出た金を金座に納めたりという商
売をしていました。
明治維新後、たまたま太田屋さんに後継者がなく、番頭をやっていた当社の初代(浅野金太郎)が一切を引き
継ぐことになりました。その時に、新しい商売は日本橋ではなく、当時はまだ新しい町だった銀座八丁目(当
時、八官町)に構えようと考えたのは初代の英断だったのだろうと思います。
●「浅野商店」になり、初代から引き継がれてき
たこと、変わってきたことはどんなことですか。
引き継いできたのは「信用第一」ということですね。代々「商人」という言葉をとても重要視していますの
で、お客様を第一にと培ってきた信用、それをいちばんに考えるということを大切にしてきました。
ただ、時代の要請というものがありますので、業態に関してはある程度変わってきています。
当社は、太田屋金箔の頃から金箔を扱っていましたが、特に昭和に入ってからは金粉を使う量が多くなって、
だんだん分業化してきたんです。一つには、日本画の先生や蒔絵師の方々は金粉を使いますが、日本画の場合、
昔はご自分で金箔を買い、絵に適した金粉を自分で作ることが多く、絵の具に溶いて使っていましたが、次第に
金粉でお買い求めになられるようになってきたということもあります。
一方、全国の箔業界も時代や環境の変化で、構造変化が起きてきて、箔打ちはすごい騒音がするのでだんだん
東京で打つのが難しくなって、現在は金沢でしか打っていません。金沢でも、箔屋を集めた場所(箔団地)でだ
け打っています。当社も金沢で提携している職人さんに打ってもらっています。そんな中で当社は金の粉を作る
という技術を発達させましたが、特に三代目(浅野輝)は金粉を作る機械をいろいろ考案して、機械で生産量を
上げられるようになり、金粉メーカーの色合いが強くなってきました。
●ご自身がお変えになったことはありますか。
これまでだとあまりに専門的すぎますし、今の時代になると、金粉を使って作った蒔絵だとか、そういったも
のが生活から離れてしまっています。「金」を使った文化を皆様にもう少し知ってもらえたらな、ということで
私が社長になった平成十五年に「金座GINZA」を立ち上げ、並木通りに店舗を移しました。
以前の店は電通通りにありましたが、指名買いのお客様だけですので、事務所的な感じが強く、それを少し一
般向けのお店にアレンジし直しました。
●この仕事をどうして継がれることになったのです
か。
働き盛りの五十九歳で他界した三代目(浅野輝)の娘が私の家内ですが、結婚後も私が継ぐということは全然
考えていませんでした。我々の世代はまだ店に入っていなかったため、亡くなる前に三代目から病床で頼まれ、
急遽入ることになったのです。四代目は輝の姉(喜久)が継ぎ、その後、私が五代目を継ぎました。
●それまではどんなお仕事をなさっていたのですか。
もとは建設会社にいまして、中近東とかシンガポールなど海外に出ていることが多く、現地での交渉や建設プ
ロジェクトを進めていく仕事をしていました。
●仕事が変わることへの不安や困ったことはありましたか。
最初、不安はありました。責任もありますし。それと、建設会社にいた時は単位が「トン」の世界。百トンと
か何立方メートル、何万平方法キロメートルなどと扱っているものが違っていました。それがいきなりミクロン
の世界になって、金粉を持って「ハハッ」と笑っただけでパァーっと飛んでしまう(笑)。そういう意味では勝
手が違いましたね。
それと、困ったというか、地方の職人さんたちとのお付き合いがたいへんでした。漆器の一大産地、輪島の蒔
絵師の方たちがお客様ですから、うちの営業の者が毎月出張して注文を聞いてくるのですが、私もたまにご挨拶
で一緒に行くと、東京から社長が来たというので、「ちょっと一杯飲んで行きなよ」ということになって(笑)。
●お仕事は面白いですか。
金といっても要は金の加工ですから、その時の金地金によって全然性質が違います。当社は木場(東京都江東
区)に工場があって、そこで作っています。同じ作り方なのに製品になると艶や光加減、仕上がりが違っていた
りして、苦労もありますが、そういうのを毎日見せつけられるのも面白いものです。
●大切にしていることや信条など教えてください。
仕事面では自戒の念も含め、相手の立場に立ってものを考えることを続けていければいいかと考えています。
「信用」というのは代々言われてきているし、これだけ続いてきている会社ですので、それを保っていくために
は、お客様や取引先様の立場を考えられる経営者でなければならないと思っています。
プライベートでは、それはもう明るく楽しく! だけです(笑)。
●ご趣味や楽しみになさっていることは何ですか。
普段は本を読んだりするくらいですが、連休や夏休みを利用して家内と一緒にダイビングをしています。若い
頃は毎週のように伊豆に潜りに行っていましたが、最近ではアジアの海、フィリピンとかタイが多いです。ちょ
くちょく行くのはサイパンですが、ミクロネシアの海はものすごくきれいです。その代わりプランクトンが少な
いので、魚の群れなどはそう多くないんです。でも、カラフルな魚がいて、普通だと一〇メートルくらい潜ると
だんだん暗くなってモノクロの世界になってくるんですが、そこは透明度が高く、三〇メート
ルくらい潜っても青い海の中が遠くまで見えるんですよ。そういう時は、もうすべてを忘れます。もちろん、お
互いのために安全は確認しあいますが、ほとんど自分の世界に入り込んでいますよ。
●これからの経営に対してどのようなビジョンをお持ちです
か。
当社は先にも言いましたように、金粉メーカーの色彩が強くなってきていましたが、金粉メーカーとしての効
率化だけを求めてしまうのではなく、お客様の方を向いた一般の市場に向けた顔作りをしていきたいと思ってい
ます。その一環として、グループ会社の(株)ジーアンドエスで、本物の金箔打ち紙を使用したあぶら取り紙・
蒔絵シール・漆塗りジュエリーなどいろいろな雑貨を開発しております。
また、同じ金粉でも使う人、画家の先生や職人さんによって形状や色など、様々な要求があり、それにできる
だけ対応した形を取っていきたいんです。うちはこういうものを作っているからこれを使ってください、という
のではなく、少量多品種なのかもしれませんが、それでお客様の信用を得ていきたいですし、漆芸文化の末端に
携わらせていただいていますので、蒔絵師さんや若い方々の作品の発表の場を広げていったり、外国にもっと紹
介できる発信窓口みたいなこともやっていけたらいいなと思っています。
●銀座とはどういうところですか。また、今後の銀座にどんな
期待をお持ちですか。
よく言われますよね、「来る者は拒まず、去る者は追わず」って。日本橋と違って、銀座はもともと明治維新
から発達してきた街ですから、新しいものがどんどん入ってきて、時代に合わせて変わっていくのが銀座だと思
います。人間の体でいえば、悪い菌が入ってくると自然に取り除いて、栄養が入ってくるとうまく取り込んでい
くとか。
入ってくる人たちも、それまでの銀座をあまり壊さない形で入って来られる。もしそうでないとすぐに去って
いかなければならなくなる。そういう特殊な文化を持っているのが銀座です。
だから、そう心配しなくても発展していくんじゃないかと、楽観的に見ています。その瞬間瞬間ではいろんな
心配事はあると思うんですが、それが自然にうまく回っていく力が備わった街のような気がします。
当社も長いこと銀座で商売ができるように、自分たちが頑張るしかないかと思っていますけれど。
●次世代にはどんなことを伝えたいですか。
若い人には、当然なのですが、昔からのもの、日本固有のものを大切にしてもらいたいですね。そういうのを
バカらしいと退けるのも若い力だとは思いますが、最近は特に変化が激しすぎるので、そんなふうに思います。
(取材・渡辺 利子)
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