会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.13   銀座で頑張る 応援団長  


久岡 芳子 
Hisaoka Yoshiko
銀座 風月堂 後見役


銀 座で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」

寛政時代から続く和菓子と喫茶 の老舗、自ら銀座応援団を自負し、美味なお菓子やコーヒーを提供している「銀 座 風月堂」。その喫茶店で働く後見役・久岡芳子氏は、初代経営者・故久岡松楠氏のお孫さん。銀座生まれの銀座育ち、日々明るく優しい笑顔で接客、訪れる客をほっとさせてくれ るが、「盆踊り」の季節は大忙し。仕事が終わるなり、浴衣姿で盆踊り会場に駆 けつける、活発で生き生きと輝く女性である。

ゲスト写真Q  銀座生まれの銀座育ちとお聞きしていますが、そのことをどう思ってい らっしゃいますか。

 銀座っ て、皆さんが思っていらっしゃるより下町で、人情に溢れた街なんです。隣近所のお付き合いもいいですしね。 私たちの両親やその上の代になると、地方のいろんな所から来た人たちもいて、銀座でやるんだ、という意気込 みで商売をなさっていましたけど、私たちにとっては、地方の方がその土地で生まれ、ずっとそこで育ったのと 同じで、普段着の感じで生活をしています。ただ、デパートなどへ行く時は着替えて行く、みたいなところはあ るんですが。
 それに、銀座を最先端の街だなんて思っていなくて、周りの方々が「あら、銀座なの」「まあ、泰明小学校な の」って持ち上げてくださって、「あ、そうなんだ」と思って、銀座というところがすごいブランドを持ってい ることに気がつく、ということが私たちの時代にはありました。言ってみれば、皆さんのお言葉が私たちを育て てくれるんですね。

  銀座で育った方と、そうでない方の違いはどんなところだと思われますか。

 例えば 泰明小学校でも、私たちの頃はみんなおうちが商家なんです。ですから名簿でも、自宅・電話番号○番、店・電 話番号○番というように、会社じゃなくてお店っていうのがすごかったですね。
 ですから、子供の頃からすでにお辞儀をするのが当たり前、同級生はみんな同じで、私もそういう中で育ち、 銀座の商売のやりかたが自然に身についてきたんですが、サラリーマン家庭の子供とそこが違うんです。以前、 会社(銀座 風月堂)で55歳までということで従業員を募集したことがありました。その時、専業主婦の方がたくさんいらして一緒に働いたんですが、お父様やご主人がサラリーマンの家庭 の方ってそんなにお辞儀しないし、お辞儀することに抵抗があるんだって、その時にわかりました。
 それと、泰明のお友達と食べ物屋さんとか飲み屋さんに行っても、お店が混んでくると、次は私たちが出る番 ねって、誰も何も言わないのに暗黙の了解で全員が立つんです。みんなが同じようにお店の状況を見ている。そ こが違うんですよね。

ゲスト写真 「銀座 風月堂」はどのようにしてできたのですか。

 もとも とは風月堂の本家(寛政年間に創業)があり、その本家の番頭さんができる人で、暖簾分けをして2軒になった んですが、それがまた暖簾を分けたので東京(米津)・銀座・神戸の風月堂になりました。
 祖父(「松月」の初代・久岡松楠)は初め 月堂で働いていました。いったんはやめて自分でカフェや食堂を やり、その後「米津 風月堂」からの暖簾分けで「銀座 風月堂」をはじめました。
 祖父は風呂敷ひとつで和歌山から上京、苦労して一代を築いた人で、飲食業は神田から始めて銀座にも多くの 店を持ち、5丁目の田崎真珠のところでも「カフェ 松月」をやっていました。夜の銀座を仕切っていたようで、昭和4年には「銀座社交料飲組合」の会長に就任し、三年間やっていましたが、55歳で亡くなりました。

  どのようにして銀座 風月堂でお仕事をされるようになったのですか。

 うちは 銀座に三軒の親戚がありまして、「銀座 風月堂」を継いだ伯母(松楠の長女で現在会長の横山秀子)と、5丁目のすずらん通りで「ヒサオカ」という喫茶店(現在、そのままの建物で刀剣屋さん)をやっていた伯父(松 楠の長男)、もう一軒が私の父(松楠の二男)がやっていた割烹「松月」(7丁目金春通り、日本そば「よし 田」の向かいにあった)です。
 そんな環境からか、私は子供の頃からなぜか喫茶店が大好きなんです。働くのも好きですが、よそのお店へ行 くのも好き、旅行に行っても地元の喫茶店には必ず入るという喫茶店大好き人間! 毎朝喫茶店へ行ってコー ヒーを飲んでから出勤します。ですから、いちばん好きなことを仕事にさせていただいて、楽しくやっていま す。やっぱり祖父の血が少しは入っているみたいですね(笑)。

ゲスト写真  初めからこちらにお勤めなさっていたのですか。

 ここで 働くようになったのは12年前からなんです。「松月」の方は母が女将さんでやっていましたので、手伝ってい たのですが、その時でも「銀座  月堂」の売店でバイトをしたりしていました。その後「松月」を閉めて、昭和通りで自分で喫茶店をやったんですが、その前にここで一年間の修行もしました。私のお店は昭和通 りの歌舞伎座楽屋前で、儲けはないけれど6年間やったんですよ。でも、バブルが弾けたのと「電通」が移転し て人通りが少なくなったうえ、お家賃もたいへんで、再契約の問題もあってそこは切り上げました。
 ここに戻って、「お願いします」って言ったら、会長が「やっと大学を卒業してきたのね。頑張りなさい」っ て。その時、女性でも働ける限りは仕事をしなさいっていう伯母の姿勢をすごく感じましたね。

  銀座 風月堂では高齢者の方がお勤めだと聞き、会社のリベラルな姿勢に感心したのですが。

 以前、 ずいぶんお年を取られた方がいまして、品物の管理や仕入れをやってくれていました。足も弱くなられて、そこ の松坂屋にお使いに行くにもタクシーに乗って、でもこの距離じゃ悪いからって遠回りして。それでその人が会 長だと思ってらした方もいて(笑)。他の従業員が、もう辞めてもらったらって言うほどだったんですが、それ でも本人が言うまで辞めてくださいと言わないんです。うちは会長自身が仕事もして、若い頃にパイロットのラ イセンスを取り、セスナやジェット機を操縦までする人で、自分でも年を感じないんですね。だから年を取って も女の人が働くのは大歓迎なんですよ。経営上、なかなかできないことですが、地元で土地を持ってやっている からできたんだと思います。

ゲスト写真  お仕事の他に趣味や楽しみになさっていることはおありですか。

 盆踊り をライフワークのようにやっていまして、以前は中央区だけで踊っていたんですが、今はあちこち23区に踊り に行っています。
 中央区で私がいちばん初めに知ったのは築地本願寺の盆踊りでした。これは盛大で美しい盆踊りで、皆さんそ れぞれ素敵な浴衣を着て踊り、とても綺麗。やぐらやバックの本願寺さんも素晴らしいんです。
 ただ、盆踊りも周りの環境が変わったせいで苦情が多くなりました。マンションがどんどん建ち、地元じゃな い人たちが入ってくるようになって、地元との関わりもないその人たちは、小さい時から盆踊りの太鼓や音楽で 育ってないからか、「もう9時なのに何、あの音は」ってなるんです。地元の人同士、お互い顔見知りだと、 「あの婆ちゃんがまた頑張ってるわ」って許せるんですが、知らない人たちは家の横でやっているとうるさいん ですよ。そんなわけで、築地本願寺の盆踊りも昔はかなり長くやっていたらしいんですが、今は4日間になりま した。

  盆踊りはいつ頃から始められたのですか。お仕事もあってたいへんではありませんか。

ゲスト写真  私の盆踊り歴は銀座 風月堂へ来たときからなので12年になります。夜は遊びたいのもあって、夕方6時までということで入りましたから、仕事が終わってからでも盆踊りに行けるようになりまし た。
 盆踊りはたいてい6時半か7時に始まるし、中央区内なら間に合います。私は絶対浴衣を着るようにしていま すが、4時から30分間の休憩時間に浴衣に着替え、髪も結って、接客しています。会社も、毎日着物を着てい てもいい、という状態ですが、着物は自前ですので高くつくので(笑)。
 それで6時になったら飛んで行くんですが、だいたい間に合って楽しく踊っています。休憩もしないで踊るも のですから汗びっしょりで、帯までビショビショ。でも、喫茶店って夏はクーラーで涼しく、仕事中は体が冷え て汗をかかないし、肩や腰が痛くなるんですが、汗をかいて踊ることで、血液検査でもすべての数値が平均より 上だったのが下になって、すごい健康法になっています。
 冬場には区民会館のお座敷を借り、週に一回、みんなで集まって楽しく踊っております。
 
  最後に、銀座に対する思いなどお聞かせください。

  ブランドのお店やとても素敵なビルがたくさんできて、立派な街になったんですが、安心してぶらぶらでき る街ではなくなってきました。それというのも自転車が多くなってきて、銀座は歩道を自転車が走ってはい けないことになっているのに、最近は自転車がスピードを出して歩行者の横を通って行ったりと、銀座自体 が変わってきまして、それについていけない私がいて(笑)。
 銀座って、銀座に来られたお客様に、のんびりと歩いてプロの選択をして頂けるところではないかと思う んです。そのためのアドバイスを少しでもできるように、それには自分が勉強して、いろんな情報を見、そ の中からお薦めしていくのが私の仕事じゃないかと思っています。

(取材・渡辺 利子)

 

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