会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.5    ふたりで築いたノーブルパール


勝又 貞子 
Katsumata Sadako

株式会社ノーブルパール前社長・現取締役


銀 座で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」
第5回目は、昭和21年に創業されたオーダーメイドの洋装店
「ノーブルパール」 の経営者・故勝又康雄氏夫人で取締役の貞子さん。
平成17年に亡くなった夫の跡を継いで社長になったが、現在は店を娘夫婦に任せ、

日々銀座の生活を楽しまれています。

  神戸のご出身とのことですが、横浜生まれのご主人とはどんな方で、どのようにして出会われたのですか。

  私の父は飯田高島屋(現・丸紅)の貿易部に勤めていましたが、スペイン語が達者で、私が3歳の時に単身 で4年ほどアルゼンチンに行っていました。途中帰国もしましたが、女学校2年の時に、天津支店の総支配 人として中国へ行ったんです。女子大を出ていた母は、私にも進学するように言いましたが、戦争も始まっ てるし、父とまた離れるのがいやで、女学校卒業を待って母と妹と三人で天津に行きました。
 天津支店には日本から来た社員がいたのですが、召集令状がきて、50人くらいいっぺんにいなくなりま した。これでは仕事にならないので、だれか若手を寄越してくれと本社に言って、それで来た三人のうちの 一人が主人だったんです。
 そのころ主人は海軍の衣料の仕事をしていたんですが、その前からお店の人が主人に、「あいつを貰 え!」ってすすめていたんですって(笑)。まあ、それがきっかけで、主人が私と結婚したいと父に言った ら、婚約はしてもいいが結婚式は帰ってから挙げるようにと、一緒に帰国させてくれたんです。

ゲスト写真 当時、主人は独身寮の寮長をし ていて、私が何か持って行くと、昨日まで破れていた障子がきれいに貼ってあるんですよ。あら、誰がやっ たのって聞くと、主人だったの。へええ、器用だわネ、なんて言ってね(笑)。母が、あんたはだらしない から結婚したら苦労するよって言ってたけど、結婚したら全然違うのね(笑)。主人はすごい働き者で、も のごとに対して熱心。それと、親孝行でした自分の親に対しても私の両親に対しても。それには私の両親も 感謝していたと思います。

  中国での生活で忘れられないことはどんなことですか。

  日本にされていた中国の人は可哀想だなあと思いましたね。だけどそれを庇うと私たちがやられちゃうでしょ。 憲兵なんかは自分は経費をもらっているくせに、人力車に乗って駅まで行っても、車夫をひっぱたいてお金を払 わないんですよ。そういういやな光景も見せられました。
 それと、私の兄は召集されて兵隊に行き、昭和20年に22歳で南方で戦死しましたが、初めは中国にいたん です。父が部隊に会いに行った時、部隊長から南方へ行く時に書いた兄の遺書をもらってきたんです。敗戦に なって、あの頃は、変なものを持っていたら中国兵に密書だと思われて没収されるし、生死は分からないけど、 父と母と三人で開けよう、そしてあとは燃やそうということになったんです。誰か入ってきたら困るので、暗い 電灯の下で読みました。その時のことを思い出すと今でも涙が出ます。

  遺書にはどんなことが書いてあったのですか。

  これまで育ててもらって、親孝行もできず死ぬのは心苦しいけれど、お国のためと思って許してくれって。それ と、何も言わないで行きましたけど、恋人がいたんです。兄は盃を集めるのが趣味で、それを一つか二つ形見に 渡して欲しい、そして自由になるよう伝えてくれ、と書いてありました。

  引き揚げていらして、すぐに結婚なさったのですか。 

  中国からは昭和21年の4月に引き揚げ、その年の6月3日に結婚して勝又の家に来ました。主人の実家に入 り、姑と兄夫婦と姪がいるところへ同居です。父は、兄嫁がいるし、姑は若い頃から働き者で厳しい人だと聞い て心配しましたが、何も知らないお嬢さんが嫁にきてくれたって、とても庇ってくれました。ほんとうにいい義 母でした。
ゲスト写真  姑はね、時々野良へ私を引っ張って行くんですよ。でも行くと、自分は一生懸命働くんだけど、私に青空の下で 昼寝してろって言うの。まあ、手伝おうにも役にたたな
帰るときは私がクワや荷物を担いで行くので、兄嫁が、貞ちゃん、たいへんだったろう、って言うんだけど、い や、寝てましたとも言えなくて(笑)。

  その後、銀座でノーブルパールのお店を始められたのですね。

  主人はちょっと変わった経歴で、高等小学校を出てから横浜の知久商店に小僧として入りましてね。それから猛 勉強して法政大学を卒業したんですよ。そして昭和18年に銀座の飯田高島屋の外商部に入社したんです。
 結婚した頃は、よし田の蕎麦屋(7丁目すずらん通り)の前にあったサイセリアというバーの一部を借りて、 進駐軍相手の土産物屋「パンニ」を開いていました。品物は知久商店が回してくれましたが、人は雇えないか ら、子供が生まれるまで私が店員をやりました。お弁当は持って行ったんですけど、おなかが減ってフラフラ で、新橋駅の階段が上がれないこともありましたね。結婚から1年後に長女が生まれて、翌々年には次女。子供 が小学校へ上がるまで、私は店へは出ないで育てました。
 現在の店は、もとは服部さんという人がワイシャツ屋をやっていて、主人が表の3畳を頼みこんで貸してもら い、21年の初め頃、パンニに続いて2店目を開店しました。それが「ノーブルパール」の始まりです。
 そこで仕事場のため、大森の山王に小さな家を買ってデザイナーを住まわせ、縫い子さんも地方から呼んで。 それが最初の工場です。34〜35年にはその家を建て替え、下は仕事場で、上に私たちが住んでいました。服 部さんから銀座のこの店を買ったのはその頃でしたね。だけど土地を手に入れないといけないと考え、地主を捜 して主人と二人で頼みに行きました。5月の母の日だったので、カーネーションを買って行ったら、子供のいな いご夫婦だったのでとても喜ばれて、勝又さんだからって売ってく
れたんです。
 当時のノーブルパールは2階建てのしもた屋で、2階を仕事場にしていました。見た人から、「屋根にペンペ ン草が生えている、銀座にそんな店はないよ!」って言われました(笑)。それで昭和48年にこのビルを建て ました。
 
 お店 を運営するにあたって、洋裁はどのようにして身につけられましたか。また、ご主人を支えられたのでしょう か。

  伊東衣服研究所という学校があり、そこの製図科に入ったのはいいけれど、まあ難しいんですよ。一年ぐらい たって、まだ勉強した方がいいかと先生に相談したら、あなたはお店で専門の人を雇う立場の人でしょう、それ が間違ってるとわかる程度でいいんじゃないの、って言われまして。それでも本科にも入って縫いもやりました が、私は縫うことはできなくて(笑)。
 その頃主人が、イギリスなどから生地のサンプルを取り寄せて、夏物と冬物で年2回くらい、帝国ホテル等で 展示会をやったんです。そこで50〜60軒のお得意様が来て注文してくださるんですが、送り迎えや接待な ど、あれこれ手伝いました。他にも、洋装店でファッションショーをするというと、私が手伝いに行くんです。 そこの先生と話している間に、色の合わせ方とか、仮縫いのしかた等を自然に覚えていったのです。もっとも、 銀座で商売をやっている人が手伝ってくれるということで、先生の顔も立つのでしょうか。そんなことで、先生 とも親しくなり、いろいろ教えてもらいました。
ゲスト写真  結局お客様には、一人一人好みに合わせますが、あまり似合わないものは似合わないと言いますね。今は跡を継 いだ次女がやっていますが、もう任せているので、私はなるべく口を出さないでいます。
 それと私は会計が好きで、帳簿やお客様の支払い、卸もみんな私がやっていましたから、主人はずいぶん助 かったみたいですよ。手形を切って、その日になって落とせないのがあると私が書き換えてあげたり、半分だけ 落とすが半分は延ばすとか。亡くなった主人も、お金のことはどうなってるのかわからなかったでしょうね。

  現在は、銀座で毎日をどのようにお過ごしでしょうか。

  今は一人になりましたが、娘夫婦が泊まりがけで面倒をみてくれたり、孫が夕食を作って毎日運んでくれてま す。ここで一人で食事するのはお店が忙しいときくらいです。
 私は小学校や女学校の友達が、世田谷や三田に4〜5人いるんですよ。それで友達と近くで待ち合わせて、美 味しいものを食べに行ったりして楽しんでます。銀座はそういうのにはいい所ですよ。
 それに、「ライオン」の5階でコーラスをやっています。NHKの6代目の歌のおばさんの片桐先生や、音楽 学校出の人も来ますし、素人ですがみんな上手ですよ。私なんか繰り返しのところでどこだか分からなくなった り(笑)。娘が、行って声を出してくるだけでいいの、って。でも、だんだん譜面が追えなくなりましたけど (笑)。
 
 ご主 人との忘れられない思い出はどんなことですか。

  天津で撮った写真のことは忘れられません。引き揚げる前に、ひょっとして別れ別れになるかも知れないから 撮っておこうと、ロシア人がやっている写真屋さんで撮ったんですよ。あれだけは大切に持って帰ってきたんで す。
 あとは、元町のメンバーと一緒に初めてヨーロッパへ行った時。横浜の姉妹都市7カ国を訪問したんですが、 着くとレセプションがあって、女の人は皆和服を着るんです。私も着物は着れるけれど帯が結べなくて、主人 に、ちょっとこれを帯の背に乗せて、と頼んだんです。でも、会場でなんだか帯がパカパカしてへんなんです よ。そしたら同行の人が、帯がおかしいわよ、って直してくれたんですけど、何と帯枕が逆さまになっていて (笑)。

  最後に、勝又さんにとって今の銀座とはどういうところですか。

 銀 座も変わってきていますが、私にとって銀座は、帰ってくるとほっとする。タクシーに乗って戻ってきても、新 橋の高架(首都高速道路)をくぐると、ああ帰ってきたなあ、と思います。だって自分の家ですものね。

文中写真
上:昭和26年の家族写真二人のお嬢さんにめぐまれて  中:婚約時代・ 天津で撮った思い出の写真  下:「ノーブルパール」50周年とご夫妻の金婚式のパーティの席上で

(取材・渡辺利子)

 
 

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