会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.2    「よ く見る・よく聞く・よくする」こと



久家 道子

Michiko Kuge

(株)久家道子エ ンブロイダリー
代表取締役会長


  久家さんが開発し たお祝い用電報・手づくり刺しゅう「はな」
(NTT)
   



自 由学園 明日館
(みょうにちかん)

バブル期に 取り壊しの動きがあり、羽仁進さん他卒業生20名で保存運動をした結果、都の重要文化財として 動態保存の認定を獲得。現在は明日館の公開講座他、展示会、結婚式等、一般に公開している。


明日館の保 存運動の資金のために開催した音楽会のポスター


中国からの お客様を迎えて


銀 座で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」
第2回目は、我が国刺繍業界の第一人者であり、「スウェーデン刺繍」の創始者でも
ある久家道子さん。1992年に科学技術庁長官賞、2002年日本ホビーショーに
て東京都知事賞を受賞、2003年秋に旭日双光章を授賞。NTTの刺繍電報を開発
成功した起業家でもある。

  久家さんが刺繍を一生の仕事にするようになったきっかけ、あるいは出発点はどのようなものでしたか。

  刺繍の仕事をするきっかけは、50年も前になりますけど、チリ公使(現在の大使)のお供で三年間チリに行っ ておりまして、帰国したのは昭和30年夏でした。
 チリの首都サンチャゴは、当時小パリといわれ、とても美しく文化的なところでした。公使館では、役得で多 くのエリートの方々とお付き合いさせていただいたのでいい情報が入ったんです。
 お茶の会などで話題の一つとして、布目をすくう刺繍の種類を知り、帰国してすぐに布地を織ることから始め ました。画期的な手法でしたが、誰にでもすぐマスターできることでたちまち流行いたしました。そして、それ を見た人が是非とも教えて欲しいということになって、それで教室をはじめました。
 スウェーデン刺繍という名前は、卒業後お世話になったスウェーデン人宣教師夫人ヤンソンさんへの感謝と、 生活工芸を愛する北欧への尊敬とあこがれの気持ちから付けたものです。

  普通は好きだというだけでは優れた仕事につながらないと思いますが、どのように勉強されたのですか。

  これにはその前に私の学校時代が影響しています。昭和18年に羽仁もと子先生の自由学園に入学しましたが、 美術に関しては良い教育を受けているんですよ。先生も素晴らしいし、よほど戦争が激しくなるまでは、毎週土 曜日が美術の時間だったのよ。もちろん、絵から彫刻から織物、刺繍、そういったのものを、佐藤忠良先生な ど、当時一流の先生方が指導してくださったの。だから、ただ刺繍が好きなだけではじめたというのではなく て、その前に美的なものに対する基礎の教育を七年間きちんと受けていたのです。 

  自由学園へはどのような事情で入学されたのですか。

  あの時代の「婦人之友」の読者は羽仁もと子先生に憧れていて、あのように生きたいと思う人たちが大勢いまし た。外地にいて、子供にそのような教育を受けさせたいという親の願いで、日本に帰国させて自由学園に入学さ せたんですよ。当時私は小学6年生で、中国の山西省に家族と住んでいたのですが、休暇で日本に帰るという小 学校の先生ご夫妻につれられて、単身帰国しました。

  自由学園は久家さんにとってどういうところでしたか。

  入学当時はまだ十分勉強できたんですが、19年に中島飛行機製作所へ自由学園から動員されて行きまして、技 師から教わり旋盤の仕事をやったんです。私は数学が好きで手先も器用だったから、製図の描き方や機械の扱い 方、「工程」にわけて進めるというものの考え方など、学科以外のところからも勉強いたしました。それで、た とえば刺繍を始めるときも、「工程」の考え方に基づき、まず布地を織ることから着手するというような考え方 に役立っています。

  お仕事は具体的にどのようなことをなさっていますか。 

  26歳で創業しましたが、刺繍の教本「スウェーデン刺繍」を出版したところ、百万部をこえるベストセラーに なりました。その後発展いたしまして、現在は10の教室と、8つの直営販売店などを経営しております。60 歳でNTTの刺繍電報を開発し、うれしいことにその刺繍の仕事を提供して、恵まれない国の女性たちに自立の 道を開くことに役立っております。
 
 ご結 婚について聞かせてください。また、芸術家であるご主人は久家さんにとってどんな存在ですか。

  夫の五十嵐芳三は新制作協会で、猪熊弦一郎、佐藤忠良、柳原義達と一緒の会に属する新進彫刻家で、ものの考 え方が純粋な素晴らしい感覚を持ち、私にとって尊敬できるひとなんですよ。
 初めは私の刺繍の本を見て、当時のユニークな発想に興味を示し、アドバイスをしてくださるなど、親切にし てくれました。結局縁があって昭和33年に結婚しました。夫は美術界のひとだし、また夫の家が横浜の絹織物 商で、羽二重の輸出をしていて絵柄や布地の知識も持っていました。私の仕事に対しても理解があり、お互い邪 魔にならぬよう各々の違う世界のことを教えてくれ、いまだにアドバイスをしてもらったり、いろいろと仕事の プラスになっております。

  仕事を忘れ、いちばんリラックスする時や場所など、どのようにしてお持ちでしょうか。また日々のお疲れな ど、どう癒していらっしゃいますか。

  私の性格は呑気で、非常に前向き、いい方向にしかものを考えないんです。楽しく切り替えられるので、例えば 新幹線や飛行機の中でも、席に備え付けてある本を眺めたり、すっかりリラックスして仕事のことは忘れられる の。行く先の資料もそのとき読んだりして。でも、その方が頭に入るし、さらに興味がわいてくるんですね。ひ とことで言うと勉強家じゃないの(笑)。だけど、ものごとに対する興味はとってもあるから、いつだって好奇 心と二人連れ。だから楽しいんですよ。
 羽仁先生の教育の中で、「驚きを忘れるな」という言葉があります。それは子供の頃にも今の私にも通じるこ とだけど、そうすると感激もあるし、感謝もしますね。それと自由学園のモットーの一つに、「よく見る・よく 聞く・よくする」があって、こ
れは簡単な言葉だけど、これさえできれば何も怖くないんですよね。

  久家さんにとって銀座はどのようなところですか。

  私は昭和18年からの銀座はよく知っております。日本に戻ってまず銀座を歩いたんですよ。戦争は始まってい たけれど、お店によってはユニークなのがありましたね。入学してすぐに銀座のお店でスーツを一着作ったんで すが、これはとても嬉しかったですねえ。その時の感動が私にとって銀座の原点です。
 今はお客様に感動を分けてあげるのが仕事となっております。26年に卒業して、学生から社会人になるとき に歩いた銀座も忘れられません。あの頃は歩けないくらい露店がびっしりだったのよ。

  最後に、現代は働く女性が多くなり、たとえば刺繍を楽しんだり、趣味に打ち込んだりする時間や精神的余裕が なくなってきていますが。

  やはり今の世の中の流れを感じること。ウィンドーショッピングからでも、音楽や映画、読書にしてもすべて好 奇心とふたり連れ。何を学び取ろうか、何を訴えているかというふうにものを見ることが大切ですね。周りから 学ぶこと。これも羽仁先生の教えですが、『「先生」はどこにでも』です。学ぶということについては、今の日 本人は世界中でいちばん幸せなの。いい国に生まれたことを自覚して、感謝の気持ちを持って生きてほしいです ね。

(取材・渡辺利 子)

 
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